原点は、経営理念に込められた想い
初の仕事は、企業向け業務システムの受託開発
私は中学を卒業し、様々なアルバイトを経験した後、得意なプログラミングを活かして1997年、25歳のときに一人でエイチームを創業しました。初の仕事は三次請けの在庫管理システムの開発でしたが、その最中、事件は起こりました。土岐市の山の中へ釣りに行った際、マムシに足を噛まれてしまったのです。病院に搬送され、その後1ヶ月間入院することになりました。毒が視神経までまわってしまったため、片目でシステムを開発し、毎朝公衆電話で進捗を報告。納品の際は病院を抜け出しました。この経験をきっかけに、「1人ではまずい、スペシャリストを集めて、エイチームに頼めば何でも解決してくれる最高の技術者集団をつくろう。」と決意しました。2000年には有限会社エイチームを設立、携帯サイトの仕事を請け始めました。そんな中、あるアプリ開発会社の下請けで始めた自動車メーカーの携帯版サイト開発の仕事が地獄の始まりでした。技術的なことが分からない担当者とのやりとりで疲弊し、脅迫まがいの出来事もありました。さらに、仕事が急増し社員が10数名になっていた当時、時間通りに出社する社員はおらず、責任がかかるからという理由で電話に出ないなど、私にとっては最も精神的にまいった時期でした。
ドン底で出会った2冊の本
2002年7月、受託案件であった本の通販サイトの開発中にデバッグのため購入をしたのが「金持ち父さん貧乏父さん」(ロバート キヨサキ著)でした。それまで技術書しか読んだことがなかった私は、この本を読んだとき、体に衝撃が走りました。“時間の切り売りをしている限りお金持ちにはならない”、“資産が利益を生み出す”のだと学び、サーバーが24時間勝手に稼ぎ出すシステムをつくろうと思いつきました。幸せの定義の1つである「金銭的に裕福であること」の発想もここから生まれました。同時期に読んだ「非常識な成功法則」(神田昌典著)では、嫌なことを紙に書き出すことで、本当にやりたいことや目標が見えてくると知り、早速紙に書き出しました。そこに書かれた目標は私の原点となり、このときに社員とフェアな関係でいることも決めました。
念願の自社サービス、
自社ゲームのリリース
2002年10月、初の自社サービスとなる「モバイルパレット」の販売を開始。どんな会社にも適用する汎用的なシステムで月額5万円のモデルにし、サーバーが勝手に稼ぐシステムを実現しました。また、これから流行する写メ、アプリ、リピート率、ゲーム性、ユーザー同士のコミュニケーション、といったキーワードをもとに、2003年12月18日、初の公式モバイルサイト「美少女トラブル学園」を、偶然にも32歳の誕生日にリリースしました。念願の自社ゲームは初日に63人の入会、ひと月100万円ほどの売上となりました。
経営理念の誕生
2002年からの2年間、自分が立てた目標を達成するためだけにがんばっていたのではないか?— そんな風に考えていた2005年2月、ある社員がシステムを盗み出そうとしていたことが発覚しました。本当に悲しい出来事でした。このとき私は、「今回は不幸な人間が生まれてしまったが、これからは幸せを生み出すような会社にしていくべきだ」と考え、その夜に「みんなで幸せになれる会社にすること」という経営理念が生まれました。そして、その状態を永く続けていきたいという想いから、100年企業を目指すことを考えましたが、100年続くことがゴールではなく、今日から100年、明日からも100年と、永久に存続する企業になろうと、2005年9月に「今から100年続く会社にすること」というもう一つの経営理念を掲げました。
みんな “で” に込められた想い
みんな“が”ではなく、みんな“で”としているのは、“みんな”とは、単なる“幸せになる対象”ではなく、“幸せを創造する主体”として協力し合いながら目標に向かって挑戦し続け、喜びや様々な価値を提供し、企業価値を向上することで、みんなで幸せを分かち合えると考えているからです
“今から” に込められた想い
今日から100年、明日から100年..と、永久に存続する企業を目指しています
“暗黒期”を経て、ついに株式上場へ
1997年の創業後、“暗黒期”を経て2004年から上場を意識し準備をしました。「エイチーム殿 —」、上場通知書で社名を読み上げられたとき、エイチームが初めて社会から認められたような感じがしました。上場承認の知らせは、2012年2月にナゴヤドームで開催した周年イベントで、社員のみんなにサプライズで発表しました。もちろん、社員のみんなからは喜びの歓声が上がりました。これからも「みんなで幸せになれる会社」を目指して、さらなる挑戦をしていきます。